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愛した人は、犯罪者だった
愛した人は、犯罪者だった
作者: 菊池まりな

第1話  雨の日の出会い

last update 公開日: 2026-09-15 20:34:06

 雨が降っていた。

 九月の終わり。

 昼間はまだ夏の名残を感じるほど暑かったのに、夕方になると空気は急に冷たくなった。

 水城美咲みずきみさきは、駅へ向かう人の流れに紛れながら、鞄を抱えて歩いていた。

 傘を忘れたことに気づいたのは、会社を出てからだった。

 朝の天気予報では、降水確率は二十パーセント。

 まさか降るとは思わなかった。

「……ついてない」

 小さく呟いて、駅前の屋根の下へ駆け込む。

 スマートフォンを取り出すと、編集部のグループチャットに新しい通知が入っていた。

 明日の午前中までに確認してほしい原稿についての連絡だった。

 美咲は一瞬だけ画面を見つめ、それからため息をつく。

 今日はもう仕事を終えたかった。

 けれど、担当している作家の顔を思い浮かべると、無視するわけにもいかない。

《確認しておきます》

 短く返信する。

 送信したところで、また雨脚が強くなった。

「……帰れないな」

 駅まで走るには少し遠い。

 コンビニで傘を買おうと思ったが、財布を出そうとしたところで気づいた。

 鞄の中に入れていたはずの財布がない。

「え……」

 慌てて中を探す。

 スマートフォン。

 手帳。

 化粧ポーチ。

 社員証。

 けれど、財布だけが見つからない。

 今日、昼休みにコンビニへ行った。

 そのときまでは確かにあった。

 もしかしたら、会社のデスクに置き忘れたのかもしれない。

 美咲は駅とは反対方向を振り返った。

 今から戻るのは面倒だった。

 それでも、戻るしかない。

 そう思ったときだった。

「これ、使いますか?」

 声がした。

 振り向く。

 そこには、一人の男性が立っていた。

 黒い傘を持っている。

 年齢は三十代前半くらいだろうか。

 派手さはない。

 濃い色のシャツに、シンプルなジャケット。

 整った顔立ちではあるけれど、それを自分から見せようとする雰囲気はなかった。

 男性は、美咲の視線に気づくと少しだけ笑った。

「駅までなら、入っていきますか?」

「え?」

「財布、探してましたよね」

 見られていた。

 美咲は少し恥ずかしくなった。

「すみません。大丈夫です。会社に忘れたみたいなので」

「そうですか」

 男性はそれ以上、何も言わなかった。

 そのまま歩き出そうとする。

 けれど数歩進んだところで、また足を止めた。

「……でも、風邪を引きますよ」

 そう言って、傘を少し美咲のほうへ差し出した。

「駅まで、一緒に行きませんか?」

 美咲は迷った。

 知らない男性だ。

 普通なら断る。

 それでも、不思議と怖くなかった。

「……じゃあ、お言葉に甘えてもいいですか?」

「もちろん」

 二人で傘の下に入る。

 思っていたより、傘は大きかった。

 肩が触れない程度の距離を保ちながら歩く。

 雨音が二人の間を埋めていた。

「ありがとうございます」

「いえ」

「助かりました」

「それならよかったです」

 それきり、男性は黙った。

 気まずい沈黙ではなかった。

 むしろ、美咲にとっては心地よかった。

 初対面の相手なら、普通は何か話さなければと思ってしまう。

 仕事は何をしているのか。

 どこから来たのか。

 名前は何なのか。

 けれど、この人は聞いてこない。

 美咲が話したくなるまで、何も聞かない。

 そのことが、少しだけ不思議だった。

 駅が近づく。

「ここで大丈夫です」

 美咲が言うと、男性は足を止めた。

「そうですか」

「本当にありがとうございました」

「気をつけて帰ってください」

 そう言って、男性は傘を持ち直す。

 そのまま立ち去ろうとした。

「あの!」

 美咲は思わず呼び止めた。

 男性が振り返る。

「お名前……」

 そこまで言って、美咲は自分でも少し驚いた。

 なぜ聞いたのだろう。

 男性は一瞬だけ考えるように黙ってから答えた。

「蓮です」

「蓮さん……」

「はい」

 名字を名乗らなかったことに、美咲は少しだけ引っかかった。

 けれど、深く考えるほどのことでもないと思った。

「私は、水城美咲です」

「美咲さん」

 名前を呼ばれた。

 たったそれだけなのに、胸の奥が少しだけ揺れた。

「今日はありがとうございました」

「こちらこそ」

 蓮は小さく頭を下げる。

 そして、雨の向こうへ歩いていった。

 美咲はしばらく、その背中を見つめていた。

 名前しか知らない。

 どんな仕事をしているのかも知らない。

 どこに住んでいるのかも知らない。

 それなのに。

 なぜか、もう一度会いたいと思った。

 その理由を、美咲自身はまだ知らなかった。

 ただ、この日。

 雨の中で出会った一人の男性が、これから自分の人生を大きく変えることになるなんて。

 このときの美咲は、知る由もなかった。

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